夕暮れが近いカフェレストランで、私と課長はワインを飲みながら向かい合っていた。
鳴り続けていたYからの電話はもう途絶えていたが、彼女に今後どう対処すればよいか、お互いに何の考えも浮かばないままだった。
ただ一つ私に言えることは、「私はコンプライアンス違反は犯していない」ということだ。
S社の契約は、私が退職者から顧客リストをもらい、足しげく訪問しているうちに運よく射止めたものだった。
ただ、顧客の希望とは言いながら、同時に私が1000万の古い契約を独断で解約したこと、ここをYはついてくるかもしれない。
「解約の件、なぜ一言私に言ってくれなかったのよ!」と。
(彼女が何らかの形で絡んでいたかどうかは定かではないが)
だが、あの貪欲な彼女のことだ。
今回の件、私が彼女に忖度してすべてを馬鹿正直に話したらどうなったか?
新しい契約の一部をもっていかれるだけでなく、下手をするとまとまりかけた話も壊れてしまったかもしれない。
だから秘密裏に私は独断で実行したのだが・・・。
「Ⅿさん、そろそろここを出ましょうか?僕、その辺を少し歩いてから帰ります」
ふと、課長が改まった顔で言った。
「課長はお家に帰ります?それとも・・・」
「ええ、歩きながら考えてみます。僕のことは大丈夫ですから」
課長はさっぱりした口調で言って立ち上がった。
私と課長は店を出ると、それぞれの方向へ歩き出した。
その夜、支社長から電話が来た。
「Yさんが嵐のように荒れ狂っているんですよ!S社の件、一体どうなっているんですか?」
私は困惑した支社長の声に、今回の件をあるがままに説明した。
「そうですか?でも、でもですね、自分が正しいと思ったら、何故、彼女に黙って独断でやったんですか?Yさんは、今回の件、自分に一言もなしにⅯさんがやったことを怒っていましたよ」
そんな言い方をする彼は一流大学出身で仕事ができ、若くして支社長になったエリートだったが、赴任して早々Yに取り込まれているのだった。
このあいだも、1課の古株で優績者のOと、Yがバッティングしたのを支社長が調整していたが、結局支社でNo1のYに肩入れしていた。
この営業の世界は、成果(数字)を上げる者がもっとも偉く力を持つ。
また優秀な職員を抱えることは、幹部候補生の課長、さらに支社長の出世にも大きくかかわってくるようだ。
結局、支社長との電話で、私の行為がYのプライドを大きく傷つけたことは分かったが、数字的な実害があったかどうかに関しては不明だった。
もし、Yのプライドだけの問題ならば、彼女は女王様か!
どうやら私はかつて遭遇したことのない、怪物の尻尾をそれと知らずに踏んだのかもしれない。
翌日、会社で私と顔を合わせたYは、私の話に聞く耳を持たなかった。
「言い訳なんか聞きたくないわよ。あなたは私に矢を放ったのよ!」
支社長にも、私が謝らない限り許さないと言ったというが、私は素直に謝罪する気にはなれない。
何かがおかしいのだ。
その後、私に味方した形になってYの不信感をかった課長は、赴任してわずか数か月で他所へ移動になった。
また、Yの横暴ぶりと他の職員へのハラスメントに反感を持っていた古株の職員たちは、私の件を組合問題にした。(私は延々と続くYからの攻撃、誹謗中傷に体調を崩し、会社を休んでいた)
アンチY派にとっては、彼女を倒す絶好の機会だった。
支社長は若干私に同情的だったが、自己保身が最も大事だった。
私は10日ほど休んだが、心身を整えると再び出社した。
そして数日経ったある日、本社からお偉いさんが数人やってきて聴き取り調査をして行ったが、すべては形だけ、茶番劇だった。
その日、会議室に職員、課長、支社長を集め、幹部たちが皆に言ったことは「過去のことはさっぱり水に流して、新たな気持ちでやっていこう」だった。
「会合ではⅯさんの思うところをみんなの前ですべて話してください。明日はあなたが主役ですから」
昨日、支社長は私にそう言っていたが・・・筋書はいつの間にか変更されていた。
組合の役員が挙手して抗議しようとしたが、それも適当に収められ会合はあっさり終了。
数分後、幹部たちがエレベーターに乗り込むのを見送るYのキンキンした声が廊下に響いていた。
「今日はどうも有難うございました!」
晴々と勝ち誇ったような声だった。
会社が掲げる人権宣言も法令順守も口先だけ。
会社ぐるみで理不尽がまかり通る世界なのだ、そのことを私は改めて認識した。
私は、そうしたダークな水にその後もしばらくつかりながら仕事を続けた。
その時の支えは、日ごとに成長する息子の姿、そして何かと力になってくれる同僚A子の存在だった。
だが、今思い返せばいい経験だったのかもしれない。
自分のようにどこか甘い人間が、この世の現実というものを肌で感じ、しっかりと見ることが出来たのだから。
表向きは立派に見えても、自己保身に汲々とする男性がいる。
そして、世の中にはあのYのようなとてつもない女性が平然として存在する、ということも分かった。
ある日、Yの瞳を間近で見たが、青みがかった目の中には何の感情も読みとれず底なし沼のようだった。
仕事に於いて、私やA子、その他の職員がいくら打倒Yを目指しても、彼女は常にトップの地位に君臨した。だが、何時からか彼女も大人しくなってきたという。ハラスメントにうるさくなってきた時代のせいだろう。会社も彼女の存在を野放しにできなくなったのだ。
それにしても、この女性はどのような境遇に育ったのか・・・。最後まで不可解な人だった。
◇
「お待たせ!残っていたご飯でツナのおにぎり追加で作って、残りは冷凍庫に入れておいた。お客さん待たせちゃってごめんね!」
ふいに声がして、A子が笑顔で立っていた。
「あら、ちょっと遅いと思ったけど、キッチンにいたの?」
私は苦笑いしながら、A子は相変わらず現実的で堅実な人だな・・・と思った。
彼女は私が会社を辞めた後もコツコツ勤め続け、このマンションも手に入れた。
一方の私は、あのYとのことがあった数年後、A子に言わせるとあっさり会社を辞め、その後も働き続けたが、同じ場所に長く留まることはなかった。
住まいにしても今のところに定住する気はなく、近い将来引き払ってどこか海や森のある自然に近い場所で暮らしたいと思っている。
以前、A子にそのことを話すと「あまり遠くへは行かないでよ。寂しくなるから」と言った。
彼女は好きな花や観葉植物を育てながら、このマンションで暮らしていくと言う。
やはり私と彼女は似て非なるものか。
男性のことでも私が好きなのは、まずは心のあたたかい広やかなひと。
そして世俗にまみれず、できるだけ清く純なひとが好き。
一方彼女はといえば、少し崩れたチョイ悪な人に惹かれるらしい。
どうしてそんな人がいいのかな?私にはわからないが。
ただ二人とも好みのタイプの男性と一緒になった筈なのに、色々あって別れてしまい今はお互い独り身だ。
だからこうして何時だって会いたいときに会って気ままに過ごしている。
私の趣味の詩吟を一緒に聴いたり、彼女の好きな花や植物の育て方を教えてもらったり、と話は尽きない。
そんなわけで早春の午後、私と友人A子の歓談は、時間を忘れていつまでも続くのでした。
(おしまい)