葬儀会館の壁に蟷螂(とうろう/カマキリ科の昆虫)が
じっと身動きせずにいます。
蟷螂は昨日から、ずっと同じ所に張り付いたままです。
私はその枯れたような茶色の姿に、藤原さんを思いました。
彼がwさんとのトラブルでこのお寺を去ってから、もう数日が経ちました。
あの日、藤原さんが狂ったように咆哮を上げながら歩いた境内には
秋の陽が降り注ぎ、黄色や赤に色づいた木の葉が散っています。
私が九月から仕事をすることになったお寺での毎日、それは一カ月ほどで
思いがけないアクシデントに見舞われることになったのですが
その結末を、かいつまんでお話ししておきたいと思います。
~あの日、境内で藤原さんが奇声を上げる声に、何事かと出てきた案内所の女性は
「どうしたんですか?」と私に硬い表情で訊ねました。
「はい、今日、wさんと藤原さんの間に一寸したトラブルがあったのですが
その後、急に藤原さんがおかしくなって・・・申し訳ありません」
相変わらず狂ったように叫びながら、ふらふら歩く藤原さんを見ながら
私は答えました。
「このことは、寺務所へ報告しておきます」
女性は、凛とした声で言いました。
もはや成す術もなく私が立ち尽くしていると、山門の横から一台の車が入って
来るのが見えました。
車を降りてこちらへ向かってくるのは、私が勤める会社のoさんという男性
で、社長の右腕的な人です。
私が事情を話すまでもなく、彼は社長から連絡があって話を聞いているのか
地面に突っ伏したまま呻いている藤原さんに呼びかけました。
「藤原さん、俺が全部話を聞くから。全部あなたの話を聞くよ!」
やがて藤原さんは、oさんに腕をとられながら境内の入り口に駐車した車に
向かいました。
中でいろいろ話しているのか、しばらく出てくる様子はありません。
私は少し解放された思いで残りの清掃を続けましたが、不思議なことに
寺務所から誰一人お坊さんが出て来る気配はありませんでした。
やがて藤原さんは話が済んだのか、幾らか正気をとり戻した感じで私の処へ
やってくると「もう終わりです」と呟きました。
「oさんは何て言ってました?」
「wさんの横暴な物言いは分かってくれました。でも社長はトラブルを起こした
私に怒っていて、あとで連絡を待つようにと言われました」と言います。
私は何故、藤原さんがあんな錯乱状態になったのか疑問でしたが、改めて聞くと
社長が電話で言ったという「藤原さん、とんでもないことをしてくれたね!」と言い放った言葉が引き金になったようです。
wさんの横暴より、自分が社長に咎められた事で孤立感を覚え、自暴自棄になって
しまった、ということでしょうか・・・。
また、その日の午前中、藤原さんとwさんとの間にあったいざこざは、寺務所から
いち早く社長の耳に入っていたようです。
藤原さんが今後どうなるのか分からないまま、私はとにかく藤原さんを促して
謝罪に寺務所へ行きました。
「今日は大変申し訳ありませんでした」
二人そろって頭を下げると、居合わせた古参のお坊さんは微かに頷きました。
私と藤原さんは玄関を出ると山門の前で何時ものように、それぞれ帰る方向に
別れて歩き出しました。
後のことは明日を待つしかありません。
翌日、社長は昨日の件でお寺へきて事務長さんと話したようでした。
「これまで通り仕事のことは頼みますよ」
社長は、先代の社長からの長い付き合いである事務長さんに、そんな言葉を
掛けられたとのことでホットした表情です。
そして藤原さんについては話し合った結果、ここを辞めて社長が請け負っている
他のお寺へ行くことになった、と言いました。
「藤原さんって、どうしてこの仕事についたんでしょうね?」
私は前から疑問に思っていたことを聞いてみました。
あの方には、もっと別な仕事があるように思えたのです。
「彼はね・・・関西の方の出身で大学もそっちの方を出ているんだけど
これまでにもいろいろあったらしくて。そこでやっていけなくなって
ここまできたんじゃないですか。彼、ああ見えて性格的に一寸難しいところ
があってね・・・」
社長は呟くように言いました。
社長とお寺さんとの関係、そして藤原さんのこれまでの人生、そこには
私の知りえない舞台裏があるようです。
「藤原さんが、あなたに謝っておいてほしいと言っていましたよ。
Ⅿさんには悪いことをしましたって」
社長は最後にボソッと付け加えました~
*ここまで前回の結末部分のあらましです。
③冬紅葉(ふゆもみじ)
藤原さんがいなくなった後「もう一人誰か付けましょうか?」という社長の
言葉を断って、私は一人で仕事をやり始めました。
一人でもやっていける仕事量でしたし、社長は、無理をしないでのんびり
やってくれればいいと言ってくれたからです。
wさんというお坊さんは、あのトラブルの後少し大人しくなっていました。
口調は相変わらずぶっきらぼうですが、時折親切だったりします。
でも、私は藤原さんのことがあったせいか、彼には当たらず触らずで
気を許すことは出来ませんでした。
十月は、浄土宗では十夜などの行事があり多忙な月とのことです。
その日、いつものように仕事していると、境内に車が次々と入り、お坊さんが
下りてきます。
地下のホールで法要があるようです。
こういう時は、いつもの清掃を控えて一旦、待機することになっています。
私は、お寺の内部にある手洗いのペーパーを補充しておこうと
寺務所の奥にある物置に行きました。
でも、ペーパーは藤原さんが担当していたので収納してある部屋が
はっきり分かりません。
そこへwさんが通りかかったので、訊ねてみました。
「そっちですよ」
wさんは顔を向けて言いましたが、私がうろうろしていると、自ら先に立って
案内してくれました。
用事を済ませた私が地下の収納庫へ行こうとすると、ホール前の通路には
色とりどりの袈裟を纏ったお坊さんたちが待機しています。
これからいよいよ法要が始まるようです。
私は少し足を止め、煌びやかで厳かなお坊さんたちの列を見つめました。
すると、最後尾に並んだお坊さんが急に私を振り返って言いました。
「さっきは大丈夫でしたか?」
突然のことに私が息をのんでいるとーー
「wさんは、口のきき方が少し乱暴ですからね。そっちじゃない、こっちだよ!
とか言ってましたね・・・」
ああ・・・と私は思いました。
そういえばあの時、近くの和室付近にお坊さん達が何人かいました。
きっと、この方も私とwさんのやりとりを見ていたのでしょう。
「はい、大丈夫です。私がうろうろしていたので案内してくれました。
時々親切なところもあるんです」
「あっ、そうですか」
お坊さんはふっと微笑しました。
それにしても、この方はどなたなのでしょう?
このお寺では会ったことのないお坊さんです。
端正で気品のある顔立ち、袈裟を纏ったすらりとした体躯(たいく)。
全身から神々しいほどのオーラが出ています。
「あの、失礼ですがここのお坊さんでいらっしゃいますか?
初めてお目にかかりますが・・・」
私は思いきって訊ねました。
「はい、ここの者です。私はここしばらく他所へ行っていましたので
それでお会いしなかったのだと思います」
「ああ、そうでしたか・・・」
それで納得がいきましたが、あまり不躾に話しかけてしまった事を
恥じた私は、姿勢を正してお礼を言いました。
「お気遣い頂きまして、有り難うございました」
お坊さんは軽く会釈すると、前のお坊さんたちに続いてホールの入り口へ
歩き始めました。
丁度、列が動き出したところでした。
翌日ー
私が仕事をしていると、昨日のお坊さんが境内を歩いていくのが見えました。
黒いこざっぱりした作務衣を着ているせいか昨日とはかなり違った様子です。
袈裟を纏っていた時のどこか近寄りがたい印象から、まだ若い修行僧に
変身した、という感じです。
私は、(あの方は本当にここのお坊さんだったんだ・・・)と、昨日のことが
夢ではなく現実だったのだ、と改めて思いました。
その後、このお坊さんとは廊下や寺務所など、どこかしらでお会いしますが
どんなときにも、心のこもった対応をしてくれます。
例えば、仕事上で困ったことがあった時は、自分の仕事をいったんおいて
見てくれたり、仕事終了の挨拶をしに行くと、玄関のチャイムが鳴れば大抵
この方が出てきて、ねぎらいの言葉をかけてくれます。
私は一緒に働いていた藤原さんが辞めた後、一人で淡々と仕事をこなす毎日
でした。
でも、この名前も知らないお坊さんの存在、それはひっそりと生きる私に
一筋の光を当ててくれるかのようです。
或る日、私が休憩時間に、ホールの通路にあるお寺のパンフレットを見ていると
案内所の女性が通りかかりました。
少し話すうち、彼女はお坊さん達の名前や役どころなどを簡単に紹介してくれました。
それによると、あのお坊さんの名前はTさんといい、ここで何年か修行をした後
独立してゆくとのことです。
とにかく名前だけでも知ることが出来てよかったです。
十夜法要(浄土宗の寺院でおこなわれる秋の念仏会)でお坊さんたちは
雅楽の演奏をするようですが、時折、お寺の奥から笛の音が聞こえてきます。
(きっとこの笛の音はあのTさんが吹いているのではないかしら・・・
あの方には笛が似合う)私は一人決めして耳を澄ませ聞き入りました。
十夜法要には沢山のお客さん(檀家さんなど)が集まりますから、私もその間、お茶の用意などを手伝います。
私の会社の社長やスタッフの人達も時折来て、樒(しきみ)という良い香りのする仏前草を束ねたり、テントを張ったりと賑やかな日が過ぎてゆきました。
藤原さんのことは、「彼も元気でやっていますよ」と社長が言っていました。
あの騒動の後、藤原さんからは「分からないことがあったら何時でも連絡して
ください」という電話があったのですが、社長の言葉にホッとしました。
そんな日が過ぎて11月の半ばになると、急な冷え込みにお寺はますます深閑となり
散らずに残った紅葉が一際、美しく映えます。
お寺にいつもの静寂が戻ったある夕方、ゴミを出しにお寺の裏手に行くと
Tさんが裏口に立っています。
私は何か物思いにでも耽っているかのようなTさんに軽く会釈しました。
「ゴミは、そこのトラックの荷台に置いておいて下さい。後で出しに
行きますから」
Tさんの言葉に従って、ごみ袋をトラックに乗せると車の下に猫が二匹
いるのに気づきました。
「ここには猫がいるんですね」私は言いました。
「ええ、そうなんですよ。三匹いて、今頃の時間になるといつもエサを食べに
来るんです」
「そうですか。どなたがエサをやっているんですか?」
「私達や、ここのお坊さんの奥さんがエサを持ってきてくれるんです。でも猫は何時までたっても懐かなくて、まだ私にも触らせてくれないんですよ」
Tさんんは苦笑いして言いました。
「三毛とトラはいるけど、白い猫はいませんね。いつか中庭から飛び出してきて
びっくりしたんですけど・・・」
「ああ、あの白はちょっと変わっていて、ほかの猫とは少し離れているみたいですね」
「そうなんですか。でも真っ白なきれいな猫でしたね」私の言葉に
Tさんは微かに笑って頷きました。
そして帰り際、裏口に目をやると、ふっと消えたようにTさんの姿はありませんでした。
その場を離れながら私は(あの白い猫は、もしやTさんの化身ではないのかしら?)
などと想像しました。
これからの寒い季節を、春までやっていけるだろうか?
次第に冷え込みが厳しくなるお寺での仕事に、私が不安を感じていた時
社長が新しいストーブを買ってきてくれました。
収納庫に置いた真っ白なストーブにさっそく火をともして温まりながら
久しぶりに社長とゆっくり話をしました。
「Ⅿさん、ここまでよくやってくれましたね。年末にはスタッフみんなで時間を忘れて飲んだり食べたりしますから、是非Ⅿさんも出て下さいね。楽しいですよ。藤原さんも来ると思いますよ」
「そうですか。楽しみにしています!」
別れた夫が不意に他界してから、私は何かを楽しむということをすっかり
封印していました。
でも今では、自分の中に少しずつ前向きな力が蘇ってくるのを感じます。
社長が誘ってくれた年末の飲み会には皆と大いに楽しもう。
そしてこの冬を何とか乗り切っていこう、そんな気持になっていました。
やがて、その年もあと一カ月足らずに迫った朝のこと。
いつものようにお寺の玄関を入ろうとして、私は目を見張りました。
寺務所の玄関前に落葉が小山のように積み上がって、ずっと先まで続いているのです。
昨夜、強い風でも吹いて吹き寄せられたのでしょうか?
これではとても行き来することが出来ません・・・。
玄関を入ると、Tさんと一番若いお坊さんが通りかかって、これから二人して
玄関前の落葉を掃くのだといいます。
私も急きょ、入り口から落葉を掃き進めてゆきました。
少しするとTさんが向こうからこっちへ落葉を掃きながら向かってきます。
そして、掃き溜めた落葉を若いお坊さんとwさんがリヤカーに乗せて捨てに行きます。
三人で時々ふざけ合いながら楽しげにやっている姿をみながら、私は黙々と
落葉を掃いてゆきます。
その繰り返しをしているうちに、私とTさんの距離はみるみる縮まって
ゆきました。
山のような落葉がわずかになった時、Tさんがうっすら上気した顔を上げて
言いました。
「あと少しですね!」
Tさんの笑顔が朝日を浴びてきらきら輝いています。
「そうですね」
私は頷いて微笑み返しました。
いつの間にか自然体で会話をしているTさんと私。
そして、みんなを結び付けてくれるかのような落葉掃き。
私は散り残った冬紅葉に一人、感謝していました。
(了)
『追記』
『長いお話にお付き合い下さって大変有り難うございます』
私はこの後、お寺で仕事中に転倒して剥離骨折し、仕事を継続すること
が出来なくなりました。
良い出会いがあった中での突然の別れ・・・残念です。
でも、短い間でしたが異なる場所で生きる様々な人との出会い、貴重な思い出と
して残っています。
その後、このお話の中の皆さんが、どんな人生を歩まれているのか分かりませんが
今頃の寒い季節になると、決まってこの高台のお寺を思い出します。
思えば、転倒した日は十年前の十二月二十五日でした。
先日、久しぶりに訪れた高台のお寺は寒空の下に深閑として立っていました。
私は境内を歩きながら、あの日と同じ冬紅葉を眺め、本堂に手を合わせて帰ってきました。
『では皆様、今年も有り難うございました。良いお年をお迎え下さいね!』