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詩吟に学ぶ・辞世「吾(われ)今、国の為に死す」と詠って逝った吉田松陰に見た「真・善・美」!!

こんにちわ。

ブログ百科ララの杏花です。

 

詩吟を始めてから約4か月がたちました。

1月に行われた試験日には石川丈山の「富士山」を唄い、先日は初段の賞状を先生から授与されました。

「立派な賞状ね。これに負けないくらいの額に入れなくちゃいけないわね!」

 

同じ初段をうけた友人と頂いた賞状を手にして笑い合いました。

 

それから数日後、教室では早くも夏に行われる昇段試験に向けてのお話があり、

いくつかある課題の中から1つ選択するようにと先生からのお達し。

 

次回は中国の詩人「李白」のものなども良いかな、と考えています。

 

ところで、今まで覚えた幾つかの漢詩の中で心に残る歌があります。

それは吉田松陰の「辞世」です。

 

出典:イラストAC

 

◆「吾(われ)今、国の為に死す 死すとも、君親(くんしん)に負(そむ)かず

悠悠たり、天地の事 鑑照(かんしょう)は、明神(めいしん)に在り」

 

通釈:私は今、お国のために死んでいく。

これまでの私の行為は、私心から発したものではないので、死にのぞんでも、天子、両親に背いてはいない。

悠久な天地の間に展開される人間の多くの行為は、神のみが知るものであり、私のこの忠誠も神が知ってくれるものであり、それゆえにこそ今従容として死につくのである。

 

この歌は詩吟の世界では多くの人に詠われ、ある人は狂ったように激しく、ある人は厳かに静かに詠っています。

 

 松陰は安政6年「安政の大獄」の流れで、時の体制にたて突く危険分子として処刑が決まった時、この辞世の句を叫ぶように詠じて他の囚人を驚かせたといわれています。

そして処刑が行使されるまでのあいだ、周りの役人誰もが感じ入るほど取り乱すことなく静かに刑を受けて死んでいったといわれます。

 

私がこの「辞世」を詠いながら思うことは、人は志のためにとはいえそこまで覚悟をもって死を受け入れ静かに散っていけるものなのか?ということでした。

 

改めて吉田松陰に関することを調べてみました。

 

◆まずざっと要約すれば、彼は幕末のころ次々とやってきては開国を迫る欧米列強に弱腰であたり何ら策を取ることのない幕府に対して、尊王攘夷を唱え国の未来を憂えて奔走した長州藩の志士です。

 

吉田松陰:文政13年8月4日~安政6年10月27日

江戸時代後期の武士(長州藩士)

思想家・教育者・山鹿流兵学師範

現在の山口県萩市に生まれる

 

彼は幼い頃から英才教育を受け「孟子」を学び、11歳の頃には長州藩主「毛利敬親」の前で教鞭をとったほどの俊才で、後に藩主から藩の宝、国の宝とまで言われた人物でした。

 

そして単なる学者にはとどまらず、机上の空論を嫌った彼は広く世の中を知るために日本の各地を遊歴、また黒船が来た際には外国をこの目で実際に知らねばならないと密航を企てたりします。

そして失敗します。

 

それを無謀と非難するのは容易いですが、何事にも「至誠」を尽すという彼の揺るぎない信条は生半可なものではありません。

 

しかし松陰の類まれな才能を支持する藩も、時に相当手を焼いたことでしょう。

時には謹慎の為、萩の「野山獄」に松陰を入れますが、そこで彼は囚人相手に勉強会を開き牢屋を塾にしてしまいます!

 

出典:photoAC


そして、野山獄を出た後には、家族の助けもあって、かの有名な松下村塾を開くのです。(ただし、ここは叔父が既に開いたものを松陰が継いだものです)

 

授業料は取らず、身分の上下もない学びたいものは誰でも受け入れる「松下村塾」にはやがて多くの若者たちが集い学ぶようになります。

貧しいながら松陰の両親、兄弟他みなが協力する中、松陰は塾生たちと寝食を共にし学び議論を交わし切磋琢磨します。

 

◆松陰の「草莽崛起論(そうもうくっきろん)」=政治は国民一人一人のものである。

これは名もなき志士に勇気と行動力を与え維新の原動力となる。

 

安政6年(1859年)彼は処刑された後も多くの塾生の精神的指導者として存在し続け、やがて明治維新高杉晋作久坂玄瑞らが、明治の政界においては伊藤博文山縣有朋らが活躍します。

 

また、表に名前は上がらなくても明治維新以降、松陰の元で学んだ多くの学生が様々な分野で活躍し日本の発展に貢献しています。

 

「吾、今、国のために死す」と言って世を去った吉田松陰、彼が渾身を込めてまいた種はその後、着実に芽を出し、花を開き、実をみのらせていったのです。

 

彼に関する資料をいくつか読み、また山岡荘八の「吉田松陰」を読み進めるうち、事の全体像をある程度掴むことが出来「辞世」を読んだ松陰の心、死を賭けた覚悟のほどが次第に心に迫ってきましたが、それにしても何という人物でしょう。

 

漢詩「辞世」から始まって私が結果的に辿り着いたのは「真・善・美」という言葉でした。

尊王攘夷論者、熱き志の人と、様々にいわれる吉田松陰ですが、彼の生き方の真髄はここにあるのではないかと思うのです。

 

彼が学んだ孟子の中には「人間性善説」がありました。

松陰に会った人は、みな彼を知ると良い方に感化されていくとありました。

 

常に静かで人を思いやり、私心なく生活は慎ましやかで・・・とは彼を知る人たちの声ですがやはり並の人とは次元が違う。

 

私が感じた「真・善・美」(プラトンイデア論)は、人間が目指すべき最高の理想の生き方だと言われています。

 

人として最高の状態は、

「真」 偽りのないこと。

「善」 正しいこと。

「美」 調和していること。

これが人が生きる上での極限の理想。

 

吉田松陰は貧しくとも、厳しく愛情深い両親や家族の元で育ちました。

そして幼い頃から切磋琢磨した学問によって知性と感性を磨き、人として正しい志を持って生きることを学びました。

 

そして、私事よりも公を選んだ彼の志は、人の為、国の為にと理想を高く広げていきます。

彼が生きた動乱の幕末、欧米列強の迫る日本、彼は天皇を中心として民が皆、至誠の心をもって調和して生きる美しい国、本来の日本を何としても死守し取り戻したかった、そう願ったのではないでしょうか?

 

開国は良しとしても、井伊直弼が調印したアメリカ側に都合の良い条件での「日米修好通商条約」に吉田松陰は日本の行く末を強く憂えました。

 

そして松陰は自ら望むがごとく処刑台の露となったのです。

 

たとえ肉体は滅びても遺る魂は生き続け、人を動かし国を救うという信念のもとに。

 

彼の詩には「辞世」の他に死の1週間ほど前、萩の両親に送った詩があります。

◆「親思う心に勝る親心、今日の音ずれなんと聞くらん」

 

そして死の前日、志を共にする志士たちに送った詩。

◆「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」(留魂録より)

 

このどちらにも松陰個人の思いの深さが織り込まれ、松陰の一人の人間、個人としての姿が浮き彫りにされます。

 

しかし実際にはわが身の事は犠牲にし、志のため死に身を投じていった吉田松陰でした。

 

彼の生きかたを人は様々に見、解釈することでしょう。

 

理想家にすぎる、無謀に過ぎると言う人もいるでしょう。

 

でも私は彼の中に「真・善・美」を見た。

 

「鑑照は明神にあり!!」すべては神が知っている、と詠って死んでいった吉田松陰

 

「あっぱれ!!」と私は思います。

 

ここでひとまず筆をおきますが、今後世界屈指の遺言文学と言われた「留魂録」をじっくりと読み、吉田松陰を更に深く知りたいと思います。