こんにちわ。
ブログ百科ララの杏花です。
ついこの間、新年を迎えたと思ったら早3月も後半・・・。
何ということでしょう。
1月~3月は特に早く過ぎると言われますが本当に早い!
そして次のブログを早く書き上げなければ、と思っているところでWBCがスタートしました。
長年ファンだったダルビッュも出るし毎回テレビに釘付け!
今回は多くの方がご覧になったと思いますが映画のような、いやそれ以上のドラマチックな要素がふんだんに盛り込まれた試合でしたね!
大谷とエンゼルスのチームメイト、トラウトが最後に対決するシーンなどは、あたかも神の采配か!と思わせる名シーンでした。
それにしても日本の若い投手陣は、あのメジャーリーガーの猛者たちを相手に堂々と投げ切って素晴らしかった!
また、打てずに苦しんだ村上も最後の大舞台で思いきりホームランをかっ飛ばし最高でした!
私が応援するダルビッシュは宮崎キャンプから早々に駆けつけ、若い選手たちの世話人的な役目を担いプレーヤーとしてそこまでやって大丈夫なのか、と心配しましたが、結果的にはみんなが良い感じにまとまり堂々と優勝を果たしました。
今回、常に一歩下がった形でみんなを見守っているかのようなダルビッシュの姿に、14年前のWBC決勝戦で相手方を抑え雄たけびを上げた22歳の茶髪のダルビッシュが思い浮かび、彼も大きく成長したんだな、と感慨深く時の流れを感じました。
今回大役を担った栗山監督、大谷、ダルビッシュ、そして気合とペッパーミルでみんなを元気付けたヌートバー、またここは!と言う所で必ずやってくれた必殺仕事請負人の吉田選手、最後に爆発した村上選手、そして雄々しく戦った日本の若い選手たち、
これからも日本及びメジャーの野球界を大いに盛り上げ活躍してくれることを期待しています!
素晴らしい戦いを本当にありがとう!!
そんな訳で少々道草を食ってしまいましたが、次に今日のお題「李白と頼山陽」について書いてゆきます。。
詩吟を習い始めて約半年が過ぎました。
1月に初段の試験があり無事通過、そして今は、6月にある2段の試験に向けて李白の「山中問答」を、そしてもう一曲は5月に開かれる詩吟大会に向けて頼山陽の「天草洋(あまくさなだ)に泊(はく)す」を数人の合吟で練習中です。
李白も頼山陽もよく知られた人物ですが、改めてポイントをまとめてみました。
「李白」
杜甫と並ぶ中国の代表的詩人。
唐代に活躍し「詩仙」と言われた天才肌の詩人。
蜀(現在の四川省)の商人の家に生まれる。
幼い頃から学問優秀、詩文の才能があったが商人の子であるため世に出る道がなかった。
若い時から各地を放浪、仙人が住むという「峨眉山{がびさん)」という山で気ままな暮らしをするなど超人離れした生活を送る。
結婚は生涯に3、4回したとあるが、妻子を置いてあちこち漫遊の旅。
後に玄宗皇帝に仕えるが、酒におぼれ傍若無人な振る舞いが仇となって長くは続かなかった。
「安史の乱」で入獄、恩赦を受けるが3年後62歳で病死。
また一説によると無類の酒好きだった李白が舟遊びをした時、水に浮かぶ月を取ろうとして転落死したともいわれている。
七言絶句の名作が多い。
「峨眉山月の歌」「山中問答」「静夜思」など。
「山中問答」
〖原文〗
問余何意栖碧山 笑答心自閑
桃花流水杳然去 別天地人間非有
余に問う何の意あって碧山(へきざん)に栖(す)むと 笑うて答えず心自(おのずから閑なり
桃花流水(とうかりゅうすい)杳然(ようぜん)として去る 別に天地の人間(じんかん)に非(あら)ざる有り
〖通釈〗
人は私にどういうつもりでこのような緑の山奥に住むのかとたずねる。
私は笑って答えない。
他の人が何と思おうと私の心はゆったりとのどかである。
みたまえ、美しい桃の花びらが清らかに流れる水に浮かんで、はるか遠くにながれ去っていくのを。
このような様子を見るにつけ、俗世間を離れた別の天地があるということを
痛感するのである。
以上のような詩からもわかるように、李白は世間を離れ山中に住み気ままな旅をして人生の大半を送ったようです。
しかし、そうした生活に心から満足していたのでしょうか?
詩才で認められても、安定した生活を得ることは出来ず転々とした生活を送った李白。
何度結婚しても、家族をおいて旅に出る人生。
お酒と美しい女人を好んだと言う李白ですが、世の中から離れた自分の人生に何かしら満たされない寂しさはなかったのか・・・?
「山中問答」の美しい詩には、うっすらと哀愁が漂う・・・そんなことを思いながら李白を歌っています。
「頼山陽」
江戸時代後期の日本を代表する漢学者。
安芸(広島)の人。
歴史、文学、美術など広範囲の分野で活躍した。
作品に「頼山陽詩選」、「日本外史」はベストセラーとなり幕末、明治初期の人々に大きな影響をあたえる。
また梁川(やながわ)星厳と二大巨匠と言われ漢詩界をリードし大きな功績を遺す。
幼い頃から漢詩文をつくり才能を発揮するが神経症の持病あり、20歳の頃突然脱藩(広島)するが、連れ戻され自宅一室に監禁される。
この時、「日本外史」を書き始める。
30歳の頃、京都に出て塾を開く。
京都東山の山陽の書斎「山紫水明処」には多くの門人が集まり文学サロンとなった。
傍ら諸国を漫遊し書画をたしなむ自由な暮らしをする。
ただ今練習中の「天草洋に泊す」は、頼山陽39歳の頃、九州各地を漫遊した時の作品。
「天草洋に泊す」
(原文)
雲か山か呉か越 水天髣髴青一髪
萬里泊舟天草洋 煙横ほう窓日漸没 (ほうそうのほうという漢字出ず)
瞥見大魚波間跳 太白当船明似月
雲か山か呉か越か 水天髣髴青一髪(すいてんほうふつせいいっぱつ)
万里船を泊す天草の洋 煙はほう窓(そう)横たわりて日漸(ひようやく)没す
瞥見(べっけん)す大魚の波間に跳(おど)るを 太白(たいはく)船に当たって明月(めいつき)に似たり
〖通釈〗
遠くに見えるのは雲か山か、はては漢土の呉か越か。
大空と大海原とが遙かに遠く相接して一筋の青い髪のように見えている。
この洋々と果てしない天草の灘に船泊りすると、
もやは船窓をつつんでたなびき日は次第に沈んでいく。
雄大なこの景色を眺めていると、大きな魚が波間に跳るのが一瞬見えたが、
その後には太白星が月のように明るく輝いて舟を照らしていた。
文政元年(1818年)西遊の途中立ち寄った天草灘の美しい展望に感動して吟じたこの詩で頼山陽の名は天下に知れ渡ったと言われています。
以前、天草の海には一度行ったことがありますが、とても素晴らしい所だったという記憶があります。
昼間には洋々と広がる大海原、そして日暮れ時にはに大魚(イルカ)の群れが飛び跳ねる姿が見え、やがて太白(金星)が明るく月のように船を照らす。
この迫力に満ちた「天草洋に泊す」は、この歌だけを歌うコンクールが現地で毎年あるそうです。
また機会を見て天草に行ってみたい、そして李白が駆けずり回ったという「峨眉山」という山にも行ってみたい!